出場が危ぶまれる中のウィンブルドン入り、芝での練習を始めているナダル。
英Independent紙のサイトで彼についての興味深い記事を見つけました。拙訳ですが、どうぞ。
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すっかり人気のなくなった深夜の全豪会場、メルボルン・パーク。ラファエル・ナダルの一日がようやく終わった。劇的な5セット・マッチとなったロジャー・フェデラーとの決勝を制した後、続く全てのインタビューも終え、シャワーを浴びたナダルは故郷に戻る長いフライトの前にホテルで仮眠をとる時間があるかどうかを気にしていた。
場内に残っているのはわずかな数の記者とセキュリティのみと思われたが、裏出口に近づいたナダルは、選手や大会スタッフの送迎を担当する運転手の多くが新チャンピオンを出迎えようとまだ残っていることを知った。ナダルは疲労の色が濃かったが彼らのオフィスに赴くと、この2週間の彼らの協力にお礼を言いながら全員に対し握手やハグを求めた。
2ヵ月後のモンテカルロ・マスターズ開幕前日、ナダルはモナコ王族の住居である王宮外でのプロモーション活動に参加した。写真撮影のためアルバート王子、アンディ・マレー、トーナメント・ディレクターZeljko Franulovic 、そして儀礼服姿の二人の衛士とともに並び立った。撮影が終わるとVIP一同はその場を立ち去り始めた。しかし、ナダルは後ろを振り返ると元の場所に戻り、二人の衛士たちにお礼を告げ握手をした。
ナダルにとって新たなる騒がしい年に起きたこれら二つの出来事の描写は、このスペイン人の性格と生い立ちについて多くを語っている。来週から始まるウィンブルドン防衛に向け昨日から練習を始めた世界No.1はラケットを投げたことがなく、底なしに礼儀正しく、クレーでの練習後は自ら整地を行い、生まれ育ったマヨルカで両親が暮らすのと同じ建物にあるアパートに暮らす、まだほんの若者なのだ。
ナダルが昨年の一大事となったウィンブルドン決勝でにおいてフェデラーを破った時、両親、4人の祖父母、多くの叔父叔母たちがセンターコートで見守った。しかし、長い間ツアーを回るナダルと行動を共にする家族は、ナダルが4歳の時からコーチを務める叔父のトニだけだった。
トニ、ラファの父セバスチャン、3番目の弟ミゲル・アンヘルはビジネス・パートナー。一族の祖先が14世紀から暮らすマヨルカ島で窓ガラス製造、レストラン、カフェ、保険会社を所有している。故郷であるマナコールには5階建てのビルを持ち、ラファエルと彼の両親が一つ、トニとその家族が一つ、祖父母が一つ、という具合に家族3世代が別々のアパートに居を構える。
ラファの素晴らしい才能が明らかになった時、3兄弟の間であるビジネス上の取り決めがなされた。かつてのスペイントップ30プレーヤーであり地元のテニスクラブでパートタイムのコーチをしていたトニが、オフィスで仕事をする代わりにラファとツアーを回りながら会社の利益を受け取ること。ラファの父が息子の金銭的な面倒をみること。以来ラファのコーチをトニが無償で引き受ける仕組みはこうなっている。
トニは常にハードワーク、他者への敬意、謙虚さにおいて一族が基準とするレベルを維持する必要性を重視する。4年前ラファがシュツットガルトの大会で優勝商品のベンツのスポーツ・カーを手に入れた時、トニはラファエルがマヨルカ島内で運転する乗り物としてより慎ましやかな車、ラファのスポンサーであるKIA社のものを用意した。メルセデスは車庫に眠っている。
トニの油断のない目の下でトレーニングするラファを見れば、尊敬と愛情は明らかだ。ほとんど言葉は交わされない。二人とも今は仕事の時間だと知っている。ラファは疲れ知らずに働き、練習では絶え間なく全力を注ぐ。
練習が終わると、トニは甥の性格について語った。
「彼は質の良い普通の教育を受け、正しい事をするように育てられた」
「彼は幼い時にどう振舞うべきか教えられた。私はこれが秘訣だと思う。成長した人間にどのように振舞うべきか教えるのはそんなに簡単な事じゃない」
ラファには反抗期はあったのか?
「いいや。全然」
ラファは常にトニの言うことに従うのか?
「そうだ。特に彼が幼かった頃は。なぜなら私にイニシアチブがあったからね」
そして今は?トニは笑顔で答えた。
「必ずしもそうじゃない。彼は23歳だ。子供の頃とは違う。23歳と10歳の人間を同じように扱ったりする者はいない。彼はもう大人で彼の望む事ができる」
ラファには家族をがっかりさせるような兆しはない。二人が組んだ早い段階において、トニは甥に対し2つの点について容認しない旨を伝えた。それは、ラケットを投げ付けること(きちんとした用具を買う余裕のない人々への敬意を欠くため)と、試合に負けた原因を外に求めること。
「彼は常に良い生徒だった。なぜなら彼は厳しく躾けられていたから」
「私は良い態度を要求する必要はなかった。私たちは他のプレーヤーたちと違う種類の関係があった。なぜなら、私は振る舞い方について他の人間には言えないことが言えたからだ。彼がプレーをする以前、私はテレビでたくさんのプレーヤーが不機嫌な表情でコートに出て行くのを見た。私はそれを嫌った。ラファエルは勝利を欲するが、マナー良く勝つ。彼がラケットを投げることは決してない。与えられた物に対して私には信じられないような扱いをする人間が時々いる」
全豪で自制を失い涙を流すフェデラーを傍らに行われた彼の謙虚なスピーチ。このことが証明するように、勝利の中でもナダルは品格を保つ。その品格と比べられるものは敗戦における彼のそれだけだ。ナダルが先日の全仏でロビン・ソダーリングに負けた際、そこには癇癪も言い訳もなかった。続くクイーンズのAEGONチャンピオンシップス欠場は長年の膝の故障が理由とされたが。来週開幕のウィンブルドンへの彼の出場はまだ確定していない。
トーナメントから離れると、ナダルは今でもマナコールのテニスクラブで練習する。ターマック舗装のコートの一面を予約する時は他のメンバーと同じようにサインをする。クラブの前を通る道の反対側にはテニス用品店が建ち、その上階にはナダルが幼少時を過ごしたフラットがある。
まれにとる休日で、彼の理想の一日のスタートは朝食前の釣り。その後父親とゴルフを1ラウンド、母親が作ったランチを食べ午後のシエスタ、夕方から友達と外出、と続く。トップへ至るまでの間、ナダルはずっと同じGF(学生のマリア・フランシスカ・ペレロ)や友達と付き合い続けている。
彼が14歳の時、ラファエルの拠点をバルセロナに置かせたがったスペインテニス協会の申し出を家族は断った。
「家族は彼がマヨルカにいながら十分うまくやっていると考えた」
「彼はマヨルカで過ごしながらその年齢のグループで世界チャンピオンになっていた。全てがうまくいっていたなら、なぜ変える?全員がその決定に満足していたと思う。ラファを含めてね。家族全員がそうすることが彼にとって良いと決めた」
「初めから私は彼がとても良い選手になると思っていた。私が彼の叔父でそう信じたかったからかもしれないがね。彼がバレアレス諸島の大会で優勝した時(ラファエルは8歳の時12歳以下の大会で優勝した)、私は本当にそう信じ始めた。他のマヨルカ人、カルロス・モヤがテニス選手として大変成功したことで、私たちにも可能性があるかもしれないと考えた」
恐らく最大のターニング・ポイントはラファエルが8歳の時に訪れた。それまではずっと彼は両サイドで両手打ちだった。彼は大抵のことに右手を使っていたが、トニはラファエルに左手でプレーするよう提案した。多くの右利きの選手はレフティーと対戦することを好まず、一つの強みとなるだろうこと。また、左手を利き腕にすることにより、両手でバックハンドを打つ際強い右手が生きてくることも理由に挙げた。
「簡単ではなかった」
「彼は一日に20分だけ片手で打つ練習を始めた。それから彼が常に片手でフォアを打つ用意ができるまで毎日時間を増やしていった」
この変更は大成功で、驚くべきキャリアへの道に通じた。わずか23歳にしてラファエルはグランドスラムで既に6度の優勝、1,400万ポンド(約22億円)以上の賞金を得た。後半の部分については彼のライフスタイルからは誰も想像できないが。
彼は有名人である状況を気に入っている?
「いいや、全く」
「有名であることは彼にとって重要ではない。お金より大切なことはたくさんある。彼は家にいることを好む。彼はマヨルカで暮らすことを好む。彼が好むその手の事はお金がかかることではないんだ」
リンク: The man who made Nadal - Tennis, Sport - The Independent.
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